北米岡遺跡「姥石」
(群馬県伊勢崎市境米岡258他)
(2007・03・21)
(2007・03・22)


 佐波郡境町米岡字高岡、字本郷、字新屋敷などにある。利根川の元の流路に面した標高42メートルほどの自然堤防上に立地する。縄文時代晩期の岩版(1973年国重要文化財)が偶然出土したことでこの遺跡が知られることになった。1942年に国学院大学が姥石周辺を発掘調査し、古墳時代の祭祀遺構が発見された。その後、1950年代に伊勢崎女子高等学校、県立博物館や境町地方史研究会などが4回発掘調査を実施している。さらに1975年以降は、境町教委が発掘調査を3回実施しており、合わせて9地点で発掘調査が行われたことになる。これらの発掘調査から、縄文時代の遺物包含層は、現地表面から1メートルほどの深さまであることが分かった。縄文時代中期後半の加曽利E4式の土器片が認められ、後期初頭の称名寺式、堀之内式で徐々に量が増え、加曽利B式でピークに達し、晩期前半まで遺物が認められる。
 1975年に境町教委が発掘調査したG区では唯一竪穴住居が見つかった。この竪穴住居は、直径5.5メートル、深さ0.4メートルある。石囲炉が設置され、壁周囲に5個の柱穴が確認できたので計8本柱と想定できる。中期末葉の加曽利E4式の土器破片が若干出土するほか、そのほかは称名寺式、堀之内式が主体を占める。わずかながら東北地方の十腰内1式の土器が含まれていた。また、H地点からは後期の特徴がある土偶が出土した。一方、遺構は伴わないが、安行I、II式、加曽利B式など後期後半の土器群があり、安行IIIa式に交じって東北地方南部の新地4式など晩期前半の土器が出土している。南関東地方と同様な型式に混在しながら後期中葉以降、東北地方の土器が見られることから、利根川沿岸で活発な交流があったことがうかがえる。出土遺物は境町教委ほかに保管されている。
「財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団」より引用
 元弘三年五月八日に、新田義貞が鎌倉の北条氏を討つために軍勢を率いて、今の北米岡で小休止した。すると、一人の老婆があらわれて、軍勢に甘酒を振舞っていたが、大館宗氏という武将の馬に蹴られて死んでしまった。そして、石になった。この石の裏側に丸い穴があるが、これは馬に蹴られた時の傷あとという。甘酒ばあさんは、「セキのばあさん」とも呼ばれ、子供がクツメリ(百日咳)や風邪にかかった時には平癒を祈り、治ったお礼ん、竹筒に甘酒を入れて供えた。

 甘酒ばあさんは、むかし、ここにヤノネ石(昔の人が矢の先端につけた尖った石)を作る工場があって、その従業員で、お茶入れなどをしていた人という。
湯浅 正彦(境町史編さん委員会会長)(1995) 「境町史 第2巻 民俗編」 P.599 より引用
▼説明の看板
群馬県伊勢崎市境米岡
(北緯36度15分59秒・東経139度15分44秒(誤差含む))より
「北米岡遺跡」の一部が存在する「境東小学校」を望む
▼(東南東より望む)
※ 「姥石」は現在、「私有地」に安置されている為、掲載致しません。
群馬県伊勢崎市境米岡149
「米岡神社」境内入口より社殿を望む
▼(南より望む)(03・21)
群馬県伊勢崎市境米岡149
「米岡神社」境内の「古墳」(名称不明)
▼(北西より望む)(03・21)
群馬県伊勢崎市境米岡149「米岡神社」・社殿
▼(南より望む)(03・21)


記された「北緯・東経」は平成14年4月1日施行の測量法改正による世界測地系に基づく値です


※ 参考サイト 「財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団」


※ 参考文献 湯浅 正彦(境町史編さん委員会会長)(1995) 「境町史 第2巻 民俗編」 P.599 より引用


※ 参考文献 藤本 浩一(1982) 「磐座紀行」 向陽書房 絶版


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