「ブラジルの密林に神を発見した話」2
神屋 信一
その頃森林には、或は原野には今日でも見られるよ |
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身としての火を拝する事になったのだということは |
うに何かの原因で、例えば落雷とか木の枝の摩擦な |
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現在のほとんど総ての宗教にその火をまつった痕跡 |
どから火を発して山火事になった事があるでしょう |
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がのこされておること等から見ても想像のつく事で |
し火山の噴火もありましょうし、その他の原因で自 |
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あります。それが他の動物になりますと、太陽の光 |
然に火を発した事が屡々あったと思ひます。私達の |
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や熱というものを知っていたことは、前にもいった |
遠い祖先は、その火が明るく、しかも暖かであるこ |
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通りでありますがこれに対して親みをもたなかった |
とから、すぐ太陽と同じものであるということに考 |
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事が、即ち感謝の念を持たなかったことが今日にな |
え付いたのでありましょう。太陽に敬慕の念を持つ |
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っても火をおそれて、これを使ふことを会得しなか |
私達の祖先である猿に似た人達は、この火に対して |
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ったのだと思います。度々云いました様に、猿に似 |
も同じような敬慕の念をもち、おそれることなくこ |
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た人間の祖先達に太陽に対する「感謝する念」が芽 |
れに近寄ったものでありましょう。近寄っただけで |
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生えたことはまちがいなく、その「有難い」と云ふ |
はなく、遂にその火のついた枝等でこの火を他に移 |
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「感謝の念」こそ純真な「信仰」であると私は信じ |
すことも知り、火を消すこともなく、燃し続ける事 |
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ております。これはただ「美しい感情」から出たも |
もおぼえたのであります。そうして愈々「これはあ |
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のでありまして何の邪念もなくただ有難いという気 |
の太陽の分身だ」と信じたに違いありません。それ |
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持で一ぱいであったと思います。「信仰」と云ふも |
からは太陽に感謝するのと同じ心で火にも向うよう |
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のは何にもむつかしく理論づける必要はないのであ |
になったのでしょう。 |
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りまして、今日の様に文化の発達した複雑極りない |
支那の周口店にある北京人の遺跡に火を焚いた跡が |
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世の中になりましても、人間一人一人がこうした信 |
あると云ふのですが、これはもっともな話で私達の |
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仰をもっていさえすれば、どんな問題も起るはづが |
祖先が火を扱い始めたのは更にそれ以前のことだっ |
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ないのであります。信仰というものは決して恐怖か |
たと考えられます。これ等のことは、原始的な信仰 |
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ら起るものではなく、感謝から生れたものであると |
が太陽崇拝にはじまっておること、それが太陽の分 |
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考えなければならないようです。 |
-5A- |
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-5B- |
さて、こうした信仰の芽生えた私達の祖先はまだ |
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りますが、その頃にはもう火を焚くことによって太 |
その頃は木の上での生活であったのかも知れません |
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陽を洞窟の入口まで持ち込むことが出来る様にさえ |
しかし火というものを知り、これを扱ふということ |
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なっていました。ですから、しまいには遠方にある |
になってからすべての場合に、例えば、火を焚くに |
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太陽よりも、手近かにある火の方を拝むといった事 |
しても、焚木を運ぶにしても、火を移すにしても、 |
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の方が盛んになった様でありますが、いずれにして |
直立しなければ不都合が起り勝ちであって、樹上の |
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も、太陽がその大本であることは確かで、この太陽 |
生活は不便であります。後肢で直立して、前肢で物 |
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崇拝から出た信仰といふものは最も理窟にかなった |
を持つ事が次第に発達したと考えるのも人間が直立 |
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しかも純真な信仰であると思ひます。それですから |
するようになった一つの理由にもなると思われるの |
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今云ふところの宗教と云ふものは、後に太陽や火を |
です。前肢をうまく使って居るものは動物のうちに |
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祀ると云ふ形式がはじめられる様になって、これを |
も数多くありますし、後肢で歩くものもあるわけで |
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取扱ふ役目をもった人達が出来、 その人達は |
すが、それだけでは人間と同じような発達はしてい |
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夫々、自分の考へをこの信仰と云ふことに結びつけ |
ないようです。 |
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て 自分の田へ水を引くといったことから起り |
木の上から下りて来た祖先達は益々火といふものの |
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はじめたもので、火を扱ふ者即ち祭祀を司るものと |
扱いになれ、いろいろの機会からこれを種々と利用 |
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なり、やがては一つの職業となってしまったのであ |
する方法を知ったのでありますが、太陽が生物を創 |
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ります。ですから宗教と云ふものは信仰を職業的に |
造し、これを育てるのだと云ふ考えは益々深くなり、 |
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利用したものだとも云へるのでありまして、信仰と |
それと同様に、火が自分達の生活に一番大切なもの |
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いふことから見れば全く必要なものでなく、宗教が |
であるといふ事も知って来る様になったのでありま |
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発達してゆくに従って、根源になる太陽の有難さと |
す。 |
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云ふものを忘れて、「造物主である太陽と云ふ唯一 |
木の上から下りて来た祖先達は地上で敵を防ぐため |
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の源」からはなれて勝手なものを造り上げることに |
や寒さをしのぐために洞窟に住む様になったのであ |
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なり、信者といふ客を独占するためにはそれをとん |
-6A- |
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-6B- |
でもなくむつかしいものにしてしまい、人間の弱点 |
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なりますと、やはり人間に似た形の真善美の姿をも |
を巧みに捕えて、恐怖心を植えつけて自己の宗派の |
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ったものを思い浮かべるようになることでしょう。 |
利益のために独占しようとして却って人間を迷路に |
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顔も手も足も体も自分達が見ることの出来る形のう |
導き込んでしまったのであります。 |
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ちから最もよいものだと考へられるものを寄せあつ |
さて、私達の祖先であるサルに似た人達が、この太 |
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めて組立てたものを理想の姿と見てそれを神の姿と |
陽やその分身である火に感謝の祈りを捧げる様にな |
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きめたのでありましょう。こういう具合に神といっ |
りますと、だんだんとその祈りの対象である太陽を |
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た最高のものを人間が作って行くときには、いつも |
自分の手近にまつると云ふことになります。或はそ |
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自分の姿に真似てつくることが自然の様であります |
の住居である洞窟の奥の方へまで持ちこみたいとい |
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例えば獣の姿をとって神としたものも、その頭部が |
う気持にもなったと思います。最初に持ちこんだの |
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牛や馬になっていてもその体は人間の形をとってい |
は太陽の分身であった火でありました。焚火からだ |
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るといった様なものです。この牛頭馬頭等の神は人 |
んだんと蜜蝋や松脂等で作った細い縄の様なローソ |
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間を守護するために考へられたものでしょう、兎も |
クが発明されると、これに火をともして洞窟の奥に |
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角、人間は最初に太陽神である人間の姿をかたどっ |
特別に設けた祭壇に祀るようになったと思います。 |
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た神を作り出したことは殆んど疑ふ餘地はないよう |
ブラジル原住民は蜜蝋の縄ローソクをよくつかって |
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であります。 この作り上げた神というのは太陽 |
おります。しかしこうした信仰がだんだんと進んで |
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の精ともいうものでありましょう。遂にこれを神と |
来ますと、火をともすと云う事だけではものたりず |
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して祭壇を設けて祀る習わしになったものとおもい |
に、ともした火の向うにまだ何か偉大なものがある |
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ます。それも最初の間は、その姿を頭に浮べるだけ |
火の源である太陽があってその太陽の中にそのすべ |
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で祭壇にかがり火をたいたものでありましょう。日 |
てを支配する偉大な力の持主があるにちがいないと |
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本の天照大神などは、殆んどその最初に造り上げら |
思いはじめたのでありましょう。それが神であって |
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れた姿をそのまま今日に伝へられておる唯一のもの |
その神というものの姿はどんなものかといふことに |
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でありましょう。その神の姿に美しい女神の形を与 |
-7A- |
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-7B- |
へたことは太古は母系が中心であったからで、又、 |
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な怪異な姿は原住民からいへばその後に考えた極く |
産むことの出来る女性が尊ばれたことも最も正しい |
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近代的な装ひだと見なければなりません。太古には |
形でありましょう。 焚火を焚いてこれを祀る形式 |
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やはり何のまとうものもない裸形の中にあったと思 |
なども最も純真な信仰を伝えておるものであります |
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ひます。私達の祖先達はそういう理想の姿の神を心 |
現在の文明諸国で、此の様な意味で正しく伝へられ |
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に描き、それを祀り、自分もそうした美しい神の姿 |
ておる信仰としては、日本の太陽崇拝から出た神な |
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に似た子孫の繁栄を願ったと思います。そうした念 |
がらの道などというのは純真な信仰に近いのかもし |
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願は、後に生まれて来る子孫に、次第に、或は急に |
れません。こうして、現在いはれるところの、神と |
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変化を与へる様になりました。理想にはとおいにし |
よぶ信仰の対象になるものがそのはじめ人間の手に |
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ても、何程かは近寄って行ったものと思われます。 |
よって作り上げられたのであります。 |
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その念願の通りにいくはずもなかったかも知れませ |
そこで神を作った人間の祖先達は、自分等のつく |
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んが、ある目標にしておる姿に近寄ろうとする意志 |
った、自分等の最も理想と考へる神の姿に、身も心 |
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は、急にか或は徐々にか、又は幾代かの後になって |
も、少しでも似通いたいと願って祈りつづけたので |
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か親の生殖細胞のどこかに焼き付けられていて、発 |
はありますまいか。どんな姿が最も美しく、理想と |
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現される機会があったのではないかと考へられるの |
する姿に近いと考えられたかは一寸想像がつきませ |
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であります。 |
ん。アマゾン河の流域に住んで居る原住民を見ても |
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よく胎教と云う事が昔からいわれていて、自分の崇 |
身体や顔に種々刺青をしたり、鼻に大き牙を通した |
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拝する人物とか、美人等に似通いたいという願望か |
り、鳥の羽の飾をつけたりしていまして、私達の目 |
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ら妊娠中、いつもこれを見ていればそれに似た児が |
からは美しい姿とは考へられませんが、これは後に |
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生まれると云われて、それがよく行はれてゐますが |
原始林や原野を横行する猛獣を形どって威嚇を主な |
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━━━もっともこれも多くの学者は否定をしてはお |
目的として発達した装いであって、本来の姿の美し |
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りますが。━━━ |
さといふのはやはりそうしたものではなく、この様 |
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それと同じ理由であります。それには、その念願の |
-8A- |
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-8B- |
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